I'd like to translate this interesting article to Japanese, courtesy of
GYLLENCRAZY
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大変興味深い記事を敬愛するブロガーGYLLENCRAZYさんの投稿で見つけたので、和訳したいと思います。
source :
‘Brokeback Mountain’: A Gay Milestone That Almost Didn’t Happen
’ブロークバック・マウンテン’:このような同性愛者の画期的出来事は今まで無かった。
記念上映会においてディレクターアン・リー氏は彼の父が彼の背中を押した事を明かした。
ブロークバック・マウンテン7周年記念が木曜日の夜(7日)ロサンゼルスで行われ、監督、アン・リー氏を紹介した時、司会者エルビス・ミッチェルの顔に、にっと笑顔が浮かんだ。
表面上はこのイベントはLAのカウンティーミュージアムで配給会社フォーカス・フィーチャースの10周年記念のために行われた。しかし、これは、ゲイ・プライド月間(同性愛者尊重活動)の最初の1週間を使い、アメリカの上訴裁判所の決定、つまりカリフォルニアの同性愛者婚禁止を覆すという裁定の再審議はしないという決定、に続くことでブロークバック・マウンテンの上映会とその後にリー監督とフィルムプロデューサーのジェイムス・Schamus氏のQ&Aは重要性を帯びてきた。
この映画はまだ10年も過ぎていない。ミッチェルはブロークバックが2005年に封切られた時の視聴者をただちに思い出した。当時はまだ上映を拒否する劇場がアメリカにあり、それを越え、リーとプロデューサーのジェイムス・Schamusはジェイク・ジレンホールとヒース・レジャーが演じたジャック・ツイストとイニス・デルマーのカウボーイの秘められた恋愛ドラマをかろうじて実現する事ができたと明かした。
E.アン・ルーの短編小説(この映画の原作)がニューヨークタイムスに発表されてから数年Schamus氏はプロデューサーとして様々に幾度もこの物語を売り込んできたが”物笑いの種”になってると感じていた。誰もやる人はいなかった。
2003年、このプロデューサーの信頼している協力者、リーはハルクを監督するプロジェクトを人に譲っていた。
Schamus氏がプロデューサーからフォーカスの重役へ変わる時、彼はこの映画を作る機会を奪取した。
しかし、リーはハルクの低い評価の後、引退を考えていた。リーの父は彼が50になるまでにオスカーを取って欲しいと願っており、「もしかすると君は現実に何かしようとしてるかもしれない。」危うく、次ぎの段階として現実に何かをしそうになっていた。とリーは言った。
彼の父が思いがけないアドバイスをするまで。
「彼の人生で初めてでした。」リーは言った。「前に進みなさい、そして映画を作るんです。君はまだ49じゃないか。」
2週間の後リーの父は他界した。この事は彼をブロークバックの舵取りとしての仕事に飛び込む後押しとなった。
喪失感にひたり深く悲しみにくれることが出来ず、自身を撮影現場での”半ゾンビ”と称しながらも、「ブロークバック・マウンテンは今ま作った中で一番簡単な映画だった。」と言い、「この映画は悲劇だが、愛についての物語でもある。そして壊れた状態の私を元に戻す手助けにもなった。」と付け足した。
もちろん、リーの喪失感と悲嘆の変容のきっかけであることを越え、この映画は、その当時の連続ホームコメディー”ウィルとグレイス”に見られるような突出した同性愛者の個性という文化に深いインパクトを与えた。
L.A.カウンティーミュージアムの芸術イベントにおいて、リーとSchamusは不朽の名作にいつまでもふけってはいなかった。リーはブロークバックが視聴者に受け入れられる主流に向いて行ったことに驚いたと説明した。
彼はブロークバック・マウンテンの決定的な重要性に対する彼自身の貢献を控えめに扱った。
「私は出来事に加わっただけなんです。」
群集の熱狂的な評価から判断して、ブロークバック・マウンテンは今もなお心に触れ、考え方を開かせている、ということが続いていると解る。
Pictures from
GYLLENCRAZY
Many thanks to
GYLLENCRAZY